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秋田県北板@秋田ring

懐かしの県北風景
304: 8/22 9:35
明治町と現在の保健所に抜けるところにも有人踏切がありました。
昔、能代駅構内は木材製品の貨車積込側線が縦横無尽に張り巡らされていて
貨車入換え作業のため列車が構内を頻繁に行き来していました。そのための危険防止
で有人踏切だったと思います。富町側の側線に蒸気機関車が待機している時は
運転台を見せてもらったりでした。
305: 8/22 9:42
俺が覚えてるのは30年ぐらい前までだが、ボーリング場横の踏切にも小屋があって、いつも係の人がいたな・・・(´д`)
最近見なくなったが、昔の鉄道の信号は切り替わる時に「ガシャーン!!」と大きな音がするので、線路沿いを馬鹿面して歩いていて仰天したもんだ。
そして、当時の明治町の踏切は遮断機が竹の棒ではなく道路幅に張ったワイヤーが昇降するタイプだった。
306: 8/22 10:16
蒸気機関車の車輪がむき出しで
シュッシュッと音を出しながら
煙をあげて走る姿に子供の頃は生き物のように感じてました。
古き良き昭和のアナログの力強さみたいなものを今でも感じてます。
307: 8/24 11:52
ここのスレを読んでいると懐かしさが込み上げてきます。
奥羽線の普通列車(通常鈍行と呼ばれていた)のSLが
消えたのが確か昭和44年ではなかったかな?
今みたいに、電車通学ではなく汽車通学(通称汽車通)と
言っていた。
夏服になると白いワイシャツがみな鼠色に変色していまい
顔もなんとなく黒ずんでいたような…
308: 8/24 15:53
自分も汽車通でした。奥羽北線(秋田ー青森間)の電化は昭和46年10月です。
ここの線区で昔見慣れたC612号機は京都梅小路蒸気機関車館に有火の状態で保存されており、
C6120号機は静態保存されていたが大宮工場で復元工事を経て現在上越線で活躍中です。
3年位前に東能代駅に姿を見せていました。
Yシャツを汚した張本人たちです。
 
309: 8/24 21:29
小学生の時
市内の小学校の小学生達による
リコーダーで課題曲を吹きながら能代市内を練り歩く(コースは忘れた)
鼓笛隊パレードがあった
児童数も多かったあの頃
そのパレードの見物客も多かった。
310:秋田県人 8/24 22:44
>>307-308
どぞ
新線切替で廃止直前のきみまち阪のトンネルも登場します

「国鉄SL 1971 奥羽本線D51・C61」
oリンク
311: 8/25 9:36

旧国鉄SL1971見ましたよ!あんな映像残っているのですね!当時は今のようにビデオカメラの無い時代です。8mmカメラで
撮ったのでしょうか?兼好の言葉を借りていえば「いとおかし」でありました。
汽車通の話から、当時東京の学校に進 略1
312: 8/25 11:42

私の父は国鉄の機関士でした。小6の夏休秋田駅から叔母の住む能代(東能代)まで
父の運転する急行津軽に乗りました。東能代駅で下車、機関車に乗る父がタオルで
口を覆い、防塵メガネをした父の姿は颯爽としていました。
機関車はC57であったこと、何時も目一杯の馬力で運転していたそうです。
でも五能線の運転はもっと大変だろうな!と言ってたのを覚えています。
313: 8/25 12:44

そうですか、お父さんがSLの機関士であられたのですか羨ましいです。
当時はまだ国鉄の全盛であったころですものね!私の記憶も定かではあり
ませんが、SLの釜に石炭をこべる機関助手って言っていたかなー、冬でも
額に汗して働いていた姿(停車中のホームで見て)が記憶の隅に残ってい
ますよ。
あと、五能線の運転士が大変だったというのは、あの線は海岸線を除いては
意外と上り下りが多かったからではないでしょうか?
1-

001-051-101-151-201-
251-301-351-401-451-
501-551-601-651-701-
751-801-851-
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